【解説書の一部】 沖縄しまうたの神髄
三絃(サンシン)が大陸から伝来し、沖縄の民族楽器として定着した。
15世紀に入ると、沖縄と中国(明国)との交易が始まる。三絃(注1)もしくは三昧線が伝来し、上流士族のたしなみ、家宝として浸透していったのもこの頃である。三絃はまず、士族の中でも宮廷で音楽を専門に務めるオモロ楽人たちの手に渡り、次第に琉歌(注2)をたしなむ士族の間に、歌の伴奏楽器として定着していったと推測される。
三絃は琉球の宮廷芸能に不可欠な楽器として認められた。
ちなみに三絃の浸透を裏付ける記述としては、1612年に保栄茂親雲上を「貝摺奉行ニ任ジ、兼ネテ絵師、桧物師、磨物師、木地引、御櫛作、三線打、矢作等ノ匠夫ノ事ヲ管ス」(琉陽)とある。これは琉球国が三絃の製作者を擁護するために取った処置のこと。また「琉陽」の1689年には、志堅原之比屋という妓女が死んだ後に三絃恋しさに幽霊となって現れたという話も記録されているから、この時代にはすでに三絃は遊女にも親しまれていたことになる。とまれ、三絃は武器を廃止した琉球士族のたしなみとして認知され、玉城朝薫が初めて冊封使の前で組踊りを上演した1719年に至って、正真正銘、琉球の宮廷芸能に必要不可欠な楽器として認められるようになった。
(注1) 三絃(サンシン)
沖縄では「三絃」「三味線」「三線」「サンシン」などの表記があり、統一されていない。悼は主に黒檀、胴にニシキヘビの皮をはった撥弦リュート。糸は、かつては絹を使用していたが、現在ではテトロン製のものが使用されている。天(ペグ・ヘッド部分)の曲がり具合、糸蔵の大きさ、製作者などによって、それぞれ南風原型、知念大工型、久場の骨型、真壁型、平仲知念型、与那城型などに分かれている。また、蛇皮は雨や湿気に弱いため、戦前の農村などでは和紙に芭蕉の切り株から出る粘着性のある汁を塗り重ねた渋張り三昧線を使用していた。この他、空缶をリサイクルしたカンカラーサンシンもある。
(注2) 琉歌
八八八六の詞型から成る沖縄の短歌。古代の共同体や王国の世界を謡いあげた神歌=オモロをもとに、15世紀頃に八八八六の詞型に変わっていったとされ、それ自体、節をつけて謡われる。オモロから琉歌への変遷はまた、不定期的な詞型から定型詞への変化でもあり、そこには一定のリズムによって定律化を生み出す三絃の浸透が大きく影響しているとも言われる。

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